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LastUpdate 2002/09/19

韓日日本文学研究者交流研究会 (2002.8/16-17)の報告

発信年月日 : 2002.9.20

2002年8月16日、17日の2日間にわたって、
韓国日本文化学会との共催により、
韓国・大田市にある忠南大学校にて、
「韓日日本文学研究者交流研究会」を開催いたしました。




  <目次>

発表題目および発表要旨[日程と発表題目]
(予告として掲載した記事)[テーマ趣旨]
[研究会開催の経緯]
[発表要旨]
研究会後記[研究会の企画者として] (山崎義光)
[韓日交流研究会の後に] (佐野正人)
報告[8月16日の報告] (加藤達彦)
 [8月17日の報告] (野坂昭雄)
印象記[そうである(あった)こと・そうではない(なかった)こと──選択の表象をめぐって] (高橋秀太郎)
 [エキゾチック韓国紀行] (野口哲也)



  <発表題目および発表要旨>

韓日日本文学研究者交流研究会

文学・思想懇話会 韓国日本文化学会 共催 [開催の経緯]

日時 : 2002年8月16日(金),8月17日(土) 場所 : 忠南大学(韓国・大田)

テーマ: 複数の日本(語)文学史―〈戦後〉を巡って― [テーマ趣旨]

第1日目 2002年8月16日(金) 13:00〜

研究発表

 ●森岡卓司  江藤淳『成熟と喪失』の〈戦後〉 [発表要旨]

 ●土屋 忍  戦後的思考――〈からゆき小説〉と〈ジャパゆき小説〉をめぐって――  [発表要旨]

 ●波潟 剛  引揚者からシュルレアリストへ――戦後復興期の安部公房――  [発表要旨]

 ●ワン・シンニョン(王信英)  日本の1930年代と尹東柱(ユン・ドンジュ) [発表要旨]

  懇親会

第2日目 2002年8月17日(土) 10:00〜

研究発表

 ●佐野正人  帰還者の文学/帰還せざる者の文学 [発表要旨]

 ●キム・キョンウォン(金京媛)  韓国文学史と在日文学 [発表要旨]

 ●チョン・デソン(鄭大成)  日本語で<コリアン・ディアスポラ>を書くということ ――金達寿ルネサンスは夢か――  [発表要旨]

 ●川村 湊  梶山季之の「朝鮮小説」の世界 

テーマ討議

1日目の発表と2日目の報告をもとにテーマについて参加者で討議


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【テーマ趣旨】

  「複数の日本(語)文学史―〈戦後〉を巡って―」

 1945年以降、様々に試みられた「日本(近代)文学史」の記述は、それぞれの記述を支える多様な「文学観」の交錯を示すものであること、言をまたない。それらの「文学観」の批判、或いはそれらの「文学史」が採り上げ得なかったテクストを発掘する試みは、これまでにも多く行われてきた。しかし、そこで1945年8月前後の〈切断/連続〉が一つの重要なトピックスとして取り扱われていること等を意識しても、1930年前後(昭和10年前後)の日本思想・文学が持ち得た多様な可能性を踏まえつつ、改めて「日本(語)文学史の〈戦後〉」を再検討することは、決して意義少なからぬものであろう。
 以上のような観点に立ちながら、特に戦後の日本(語)文学史を巡る状況を、日本の特殊性という枠内のみで考えるのではなく、例えば東アジアを中心とした広義の交流の場の中に置くことで、改めて複眼的に捉え直し、加えてその史的状況の中、今現在も様々な場から行われる日本(語)文学に対する研究・批評の在処を再検討することを目指したい。無論それは、各テクストの個別的具体的な相を通じて、複数の「日本(語)文学史」を浮上させる試みであり、同時にその複数性・多様性の質自体を問う試みでもある。

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【研究会開催の経緯】

 このたびの「韓日日本文学研究者交流研究会」は、「文学・思想懇話会」のこれまでの運営方法で、韓国での研究会開催を相談しておりましたところ、佐野正人氏をはじめ韓国在住の方々および従来この研究会に様々の形でお集まりいただいていた皆様の賛同・協力を得ることができました。そして、佐野正人氏より権五樺(クォン・オヨプ)氏へ研究会の構想をお話いただくことで、韓国日本文化学会との共催が実現いたしました。
 会合の中心テーマは「複数の日本(語)文学史―〈戦後〉を巡って―」です。研究発表は、これまで同様、企画メンバーからのお願いを快く引き受けてくださった方々です。斡旋くださった方々、そしてご発表をお引き受けくださった方々、運営にご協力いただいた方々に、厚く御礼申し上げます。
 当日の発表とその場での討議が、このテーマが目指す「複数の日本(語)文学史」を構想する手がかりとなる会合となりますことを期待しております。

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【発表要旨】

1日目

 ●森岡卓司  江藤淳『成熟と喪失』の〈戦後〉

 「日本に於ける〈近代〉化」というテーマに即して編集された「〈戦後〉文学史」であり、多くの批評の対象となりつつ現在なお有力な「文学観」の一つと見なされ続けている江藤淳「成熟と喪失 ―母の"崩壊"―」について検討を加える。
 「われらの時代」をはじめとする作品群にあらわれる大江健三郎の「政治性」について江藤が加えた激しい批判等に留意しながら、日本に於ける「アジア」(「母」がその名の下に〈身内〉化していた何者か)の視点が「成熟と喪失」には認められないことと、夙に指摘されるようなこの「日本文学史」に於ける「アメリカ」という存在が含む問題との関連を考察する。また、江藤が漱石―実篤―谷崎という日露〈戦後〉文学に触れていることにも着目しながら、「成熟と喪失」が提示する「個人」或いは「治者」という像について、その文学史的記述の方法を考えたい。

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 ●土屋 忍  戦後的思考──〈からゆき小説〉と〈ジャパゆき小説〉をめぐって──

 『南の肌』(円地文子、1961)は、1900(明治33)年の「おくんち」(長崎の大祭)で「女衒」の手先に目をつけられた天草の女性が「からゆきさん」として海を渡る場面からはじまり、英国人男性とともに帰国し、翌1945(昭和20)年に「終戦」を迎え、戦後の日本をふたりで「つつましく」生きるところまでを描いた〈からゆき小説〉である。それに対して『雷神鳥(サンダーバード)』(立松和平、1992)は、フィリピーナとの「偽装結婚」を「結婚」と受けとめる日本人男性の視点を通して、「ジャパゆきさん」という呼称を表に出さずに「ジャパゆきさん」を描いた〈ジャパゆき小説〉である。両者における故郷意識や近代史記述としての側面を検討しながら、様式史や文芸思潮史とは異なる「文学史」を模索できればと思っている。

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 ●波潟 剛  引揚者からシュルレアリストへ──戦後復興期の安部公房──

 戦後派の作家安部公房は、「ぼくは東京で生れ、旧満洲で育った。しかし原籍は北海道であり(中略)、故郷をもたない人間だ」という発言を繰り返していた人物である。この発言は安部文学の特徴である無国籍性を保証するものだが、その無国籍性は「引揚者」というイメージを希薄にする作家の戦略とともに生じたと言える。彼が文壇デビューを果たした小説は、「満洲」を舞台としていた。また、彼がシュルレアリスムの実践を小説で試みたその同じ時期、公にすることを極力避けるかたちで「満洲」を舞台とした敗戦者あるいは引揚者の物語を執筆していたことも近年明らかになった。では、安部文学における無国籍性と、彼の満洲体験や引揚体験とはどのように関わり合っていたのか。本発表では、安部公房という作家が「戦後」の文学界、あるいは「戦後」の日本社会をどのように見た結果、「シュルレアリスト」の道を選んだのかという疑問のもとに、彼の初期小説を読み直してみたい。

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 ●ワン・シンニョン(王信英)  日本の1930年代と尹東柱(ユン・ドンジュ)

 翼賛的一元体制にすべてが吸収されて行く敗戦直前までの日本の1940年代には、逆説的でありながら<文化>が溢れている。それはもちろん一元的世界を成り立たせるためのシステムとしての<文化>であろう。1930年代の日本の知識人たちの多様な言説の中にはそのようにシステム化されて行く一元的世界に対する苛立ちの意識がみられる。多様さとはそのような意識によって破片化されて行った彼らの精神の片鱗としての多様さであろう。
 今や韓国では国民詩人として親しまれている尹東柱の、国民詩人としての像は彼の死後それを望む時代的状況によって造型された側面がなくもない。福岡で獄死した彼の死が象徴するように1942年特高によって逮捕されるまでの彼の生には当時を生きる青年知識人の姿がみられる。それは時代を切り抜いて行くための方法を模索する知識人としての姿そのものである。そして東京から京都への移行は彼のその模索の方向を示すものではないだろうか。その可能性を彼の残した僅かな資料から読み取ることができる。それらの資料を通して造型された国民詩人としての尹東柱ではなく当時を生きた一人の知識人青年としての彼の姿に近づいてみたいとおもう。

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2日目

 ●佐野正人  帰還者の文学/帰還せざる者の文学

 日本の戦後は、多く〈脱帝国主義化〉の過程として表象され、ドイツら敗戦国のたどった過程と平行するものとして考えられてきた。「ねじれ」「汚れ」(加藤典洋)といったタームは戦後のいまだ清算されざる原罪意識を示している。しかし、戦後の〈脱帝国主義化〉の過程を特権化することで、われわれはアジアの〈脱植民地化〉の過程との相互流通の可能性を閉ざしてしまってきたのではないだろうか。1970年前後に〈ナショナルな物語〉が前景化するまで戦後は多種多様な経験と可能性に開かれた空間として存在している。その内実はポストコロニアルな〈脱植民地化〉の過程と通底するものであったと思われる。
 本論では金石範と日野啓三という二人の作家を取りあげ、帰還した者(日野啓三)が亡命者でもありえ、帰還せざる者(金石範)がまたコメットメントする者でもあった日韓の戦後という空間のダイナミズムを照明してみたい。加藤典洋『敗戦後論』や崔元植の「近代論」についても言及したいと思っている。

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 ●キム・キョンウォン(金京媛)  韓国文学史と在日文学

 残念ながら在日文学は、韓国文学史という範疇の中に編入されることを一言の下に拒絶されてきた。それは在日文学が日本語で書かれたという「自明の」理由からだ。この点は韓国文学通史を記述するにあたって、漢文文学が国文学だということを証明するために傾けた莫大な努力と比較するとき非常に対照的だ。なぜ、このようなことが起こったのだろうか。この点について、根本的にもう一度考えてみるためには韓国文学という概念の規定から疑うことなしに、本来的で本質的なものとして想定されている韓国語について、同時に在日文学に使われた日本語について、ひいてはまるで自明な実体のように扱われてきた国語(民族語)、国文学史という範疇自体から考えてみざるをえない。韓国文学史は在日文学をはじめとする在外文学を包摂することによって、自身の矛盾に果敢にぶつかっていかねばならない時だと考えるものである。

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 ●チョン・デソン(鄭大成)  日本語で<コリアン・ディアスポラ>を書くということ――金達寿ルネサンスは夢か――

 いわゆる「日本文学史」というものを韓国から見ると、その一国史観や<周辺>の隠蔽についてあらためて考えさせられる。
 1945年8月15日を前後して日本における日本語作家として活動しだした金達寿は、「戦後」(「解放後」)の最も優れたポストコロニアルな作家の一人であったにもかかわらず、日本でも韓国でもいまだ正当な評価が与えられていない。本発表では、その足跡を再評価しつつ、それとオーバーラップさせて、日本(語)文学史そのものを多元化してゆく可能性を打診したい。
 現代史を身をもって抉ろうとした初期・中期の小説群、後期における古代史探訪の記録群 ――そのどれもが日本<語>文学のスリリングな実験であったが、前者は類まれな<離散>文学であり、後者は暴力的な「単一民族神話」に対する平和な異議申立てであった。
 ただし、その<シオニズム>と<クレオール主義>の間で、<他者>どうしの出会いを思い出し実践してゆく文学史のエクリチュールはいかにして可能か。さらにできれば、そのような作業が、東アジア的視野から<日本(語)>(ひいては<韓国(語)><中国(語)>など)を開いてゆく一つの重要な契機を孕んでいるということを論じようと思う。

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  <研究会後記>

研究会の企画者として

山崎義光 

 当日は、日本からの参加者、韓国内からの参加者ともども、開催企画当初の予想をはるかにうわまわる盛況となった。企画メンバーからは、森岡卓司氏、土屋忍氏、佐野正人氏が発表し、日本からの参加者としては波潟剛氏、川村湊氏が、そして韓国からの発表者としてはワン・シンニョン氏、キム・キョンウォン氏、チョン・デソン氏の計8名が、それぞれ力のこもった発表をされた。
 このような会を開催できたことは、ひとえに韓日日本文化学会の共催を得られたことによる。会員のみなさま、なかんずくコン・オヨプ先生、それに忠南大学校の院生などのご協力を得られたことによって円滑な会場運営をしていただけたことに、深く感謝いたします。そして、発表していただいた方々には、企画者がわの連絡不十分な点や不手際がありながらも寛大に受け止めていただいた点があったこともあり、お詫びととともに感謝いたします。また、来聴に、日本から、韓国国内から多くの方々にご参加いただき、企画した者の1人として会が盛況であったことをよろこんでおります。

 研究会での発表一つ一つに触れた「報告」は、別に記事が書かれるので、ここでは研究会企画者の一人として、当日、会の全般にかかわって話題となった点についてのみ触れることとしたい。ただし、企画者の間で十分な議論の積み重ねまではできていなかったため、必ずしも共通の認識を代表した意見とはならないかもしれないことを、おことわりして、以下テーマに関して一言記しておきたい。

 この研究会で取り交わされた議論は、一言で言えば、「どのような場で、どんな主体が発話しているのか?」ということだったといえると思う。研究発表の内容としても、そのような点が問題となっていたというのみならず、この研究会そのもの、その場での発話そのものが、そういう問いを誘発したということである。
 研究会の場で、そしてその後の懇親会で、意見・議論が集中したのは、テーマ題目「複数の日本(語)文学史――<戦後>を巡って――」にかかわるものであった。
 たとえば、ワン・シンニョン氏の発表で、1930年代から1940年代はじめにかけて、あえて使用を強いられていた日本語ではなくハングルで詩を書いた尹東柱(ユン・ドンジュ)がとりあげられたことで、「日本語」で書かれなければ「日本文学」からは除外されるのかという疑問が提示された。また別の場面では、「戦後」とは、いつのことか? という指摘もあった。「戦後」という言い方そのものに、日本の立場からの規定(大東亜戦争後、太平洋戦争後、第二次世界大戦後 etc)であることが前提とされており、韓国の立場からすれば、「戦後」とは朝鮮戦争後であること、あるいは、戦争は1度ではなく、またどこからどこまでが一つの戦争であるかといった見方もまた提示されうる。また、「日本文学史」を語る場合に、それは誰の立場から見た文学史になるのかといった問い。そうした複眼的な視点の可能性から、テーマ題目を問いただす発言が、とくに韓国で「日本文学」を研究する方々からあいついだわけである。
 これは、「日本文学」「日本語文学」という領域は、誰のものなのか? 誰にとってのものなのか? という問いであったと言い換えてもよいだろう。
 こうした視点からの発言が、リアルに提示されたのは、「韓国」という場で「日本語」によって、日本語を母語とする者と韓国語を母語とする者とが、同じ発話の場にあったからである。それゆえ、あえて、韓国語で発言しながら、それを日本語で言い直した質問者の発言もあった。言葉の溝をあえてその場で顕在化させる意図があったからである。

 必ずしも企画員の間に十分な議論がなされたわけではないが、私自身のテーマについての理解は次のようなものであった。
 さしあたって、テーマを決めた、<テーマの発話主体>は、「文学・思想懇話会」という日本人の「日本文学」研究者たちであった。そして、それらの者たちが、研究の場としていたのが「日本文学研究」という場であった。そういう場で暗黙の前提とされてきた「日本文学史」を語る場と立場を問い直し、それとは異なる「日本文学」の語り方(とらえ方)はいかにありうるかを問うために、あえて韓国において「日本文学」について、なかんずく日本において「戦後」といわれる時期に対象をもとめて討議しようということ、それが趣旨であった。これは、語り合うきっかけとして発せられた企画主体の立場からの問いであるが、しかし、それに対して「複数の」としたのは、まさしく日本の文学研究の場で語られてきたのとは別の語られ方がありうるのではないかという発想に端を発するものであって、何か「一つのよりよい文学史」を考えようであるとか、「日本の」という枠組みを制約として閉じようであるとか、あるいは、「戦後」とは1945年以降のこととして限定したいという意図とは、ちょうど正反対の発想で、発話の視点そのものを議論の場で相対化しながら、別の仕方での語り方(とらえ方)を議論したいという意図であった。
 場と主体の属性を抜きにした発話はありえない。これは日本語も韓国語も両方できるといった言語能力の問題に還元して解消できるものではないのはいうまでもない。
 そうしたなかで、「対話」に意義があるのは、異なる立場からの発話が交叉する場を用意することで、「日本」とは別の場所で相手の立場から見直すこと、そうすることで、自明の前提としていたことがらを再考する、作り直す、新たな場を創出するきっかけになるであろう。それが、このテーマの発話意図であり、研究会開催の趣旨であったと理解している。

 時間的な制約があったことももちろんであるが、その場での議論がどうなるか予想しにくい面もあって会の段取りに不手際があり、十分な議論にまでいたらなかった面があった。しかし、それでも開催した意義は大きかったと、一人の参加者として感じた。
 参加された方々にとっても有意義な会合であったと感じていただけたなら、企画者として望外のよろこびである。

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韓日交流研究会の後に

佐野正人 

 8月16日、17日の2日間、韓国の大田市で韓日日本文学研究者交流研究会が持たれた。小さい研究会だが、韓国人、日本人参加者合わせて延べ60人を越える参加者があったので、まずまずの成功だったと言えるだろう。特に韓国側の参加者が予想以上に多かったことは、たいへん嬉しく、率直で刺激に満ちた討論も含め印象に残る会となったと思っている。

 この会が持たれるに至ったのは、昨年、文学・思想懇話会という東北大OBを中心とした研究会が、一度韓国で会を持ちたいという話が持ち上がり、その会に関わっている私が韓国側との連絡等を受け持ち、韓国日本文化学会との共催という形で実現にこぎ着けたといういきさつのものである。韓国側の参加者が多かったのは、ひとえに韓国日本文化学会の広報の賜物である。まったくの手弁当ということで、日本側に運営面で未熟なところがあったので、韓国日本文化学会の方々には本当にお世話になったし、迷惑もかけたのではないかと思われる。
 韓国はホスト精神の豊かな国で、つまりお客を迎えるのにたいへん献身的な情熱を注ぐので、もちろんお客の前ではそのようなことは言わないが、実際は少々コミュニケーションに不十分さがあったことは否めない。実際に運営面でかかった苦労(経済的な面を含めて)や大学院生たちを手伝いに付けてくれたことに関して十分お礼ができたか分からない。

 コミュニケーションの不十分さということは、研究会の討論を通じて問題化されたことでもあった。結局、日本の日本文学研究者が韓国にやってきて、日本語で日本文学について論じるということに関して、私を含めそれほどつきつめて考えたわけではなかったが、討論を通じてそのようなことの持つ意味について自覚せねばならないことになった。

 1日目の研究発表で、日本人発表者が3人つづいた後で、韓国人の発表者が尹東柱(ユン・ドンジュ)と日本の1930年代というテーマで発表を行った。もちろん日本語での発表で、日本の1930年代の知的風土の中で読書し考えた青年知識人としての尹東柱という、戦後に神話化された愛国詩人の像を脱神話化する新鮮な発表だったのだが、そのテーマは「日本語で書かないこと」を問題化することにもなったのである。つまり、尹東柱は日本の1930年代と共通する知的風土の中で読書し、思考したのだが、結局、日本語で表現することはなく、韓国語で残した手書きの詩篇3冊を残して日本留学に向かい、そのまま京都で検挙され福岡で獄死している詩人である。戦後、その床下の土の中に瓶に入れられ保管された詩篇が出版されることで、尹東柱は韓国近代詩の命脈を保った詩人として国民的詩人となった。発表者(王信英氏)の表現を借りれば、「日本語で詩を書かなかったことで、戦後詩人となった」という事情があったのである。

 その発表に刺激されるように、韓国人の発言があった。たいへん長い発言だったが、それをまず韓国語で発言し、それを日本語に翻訳するという形で、「韓国で日本語で日本文学について論じること」を問題化する刺激的(挑発的?)な発言だった。研究会のテーマが「複数の日本(語)文学史」であったが、それが日本文学の地平を広げる意図を持つことは認めつつ、そのテーマが排除しているものが存在することを認めるべきであること。つまり、尹東柱という存在自体を一見排除しているように見えることや、尹東柱が「日本語で書かなかったこと」の問題性をそのテーマの下では取り上げえないこと。もっと広げれば、韓国人研究者が「日本語で発表すること」自体の持つ意味について、日本人研究者は自覚するべきであるという論点も含めて、たいへん挑発的な発言であった。
 いわば、日本側の参加者の盲点とも言うべきものを突いたもので、暗黙の日本語、日本文学中心主義を批判する態のものだったのだが、それはテーマ(複数の日本語文学史)についてや、韓国で日本文学について日本語で論じることの持つ意味について、自覚的でなかったことを反省させることになった。

 その論点は、2日目の研究発表でも反復されて、やはり韓国人発表者(金京媛氏)が、「言語的な選択をすること」の意味についての問題提起を行った。植民地時代の日本語使用が「帝国の言語」の使用として、強制から自由ではなかったこと。しかし植民地時代末期の日本語創作に、自発的な契機がやはり認められること、それが倫理的な契機を含むものであったこと。等が問題化され、それと在日韓国人の日本語創作の「二重言語状態」とを対比する形で、論は進められていた。つまり、前日の尹東柱が植民地時代末期に日本語を選択しなかったことの意味や、それを「日本語文学」として扱いえないことの意味について、もっと広い文脈から捉え返すものであったと言いうる。

 その二つの発表について、期せずして韓国人発表者二人から、言語選択の問題について議論が出たことは偶然ではなかっただろう。われわれ日本人が感じている日本語使用(日本語文学)の問題と、韓国人の感じる日本語使用(日本語文学)とは、深い距離があり、その距離について日本側は無自覚であったことの反証であったと考えている。自発性と強制性との複雑に絡まり、「帝国的言語」と選択した言語としての位相とが絡まる地帯が、問題化さるべき領域として提示されたと思われる。

 ちなみに、日本側の参加者はそのような多言語状況について触れるものは少なかったが、「他者」としてのアジアを問題化した発表がつづき、江藤淳の「他者」(森岡卓司氏)、安部公房の満州体験における「他者」としての中国人表象(波潟剛氏)、梶山季之の朝鮮を舞台とした小説、特に『族譜』を取り上げて、朝鮮体験と引き揚げ体験の持つ意味について考察した川村湊氏の発表など、それなりに真摯に「他者」と向き合おうとしたものであったと思われる。

 しかし、やはり「言語使用」の問題に典型的に現れたように、相互のコミュニケーションはまだ不十分であったという感は拭えない。それでも韓国という地で日本語文学について論じることで、日本文学は「他者」に出会ったということは言えるだろう。「他者」はすぐそこに、韓国人日本文学研究者という姿で存在していたのである。そのことの意味についてこれから日本文学は考えてみるべきであろう。彼らは「日本語」および「日本文学」を決して自明のものとは考えていないことが分かったからである。

 私も2日目に発表を行ったが、それは言語選択の問題は扱わなかったが、在日朝鮮人と外地から引き揚げた日本人との文学を通して、そこに戦後の「選択」の契機を見るべきだというもので、ある意味で強制された「戦後」と自発的な「戦後」の複雑に絡まる領域を問題化しようとしたものであり、どこかで韓国人発表者の問題とクロスする実感を得た。

 韓国から日本語文学を考えることで問題化されることが確実に存在する。それが、日本語の自明性や日本語文学の自明性を揺るがすことで、新たなコミュニケーションの可能性を開くものであること、「他者」に開かれていく可能性を持つものであることを実感できたことで、たいへん貴重な体験であった。王信英氏が言っていた言葉だが、「話し合い続けていくこと」がもっとも重要なことであるということを実感した二日間であった。

(2002/08/23)
※ POSTCORONIAL NEWSにエッセイとしてアップされた記事を許可を得て一部修正し転載

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  <報告>

8月16日(金)

報告者:加藤達彦

 現在、日本には何やら空前の〈日本語〉ブームが訪れているらしい。確かに齋藤孝『声に出して読みたい日本語』(2001・9、草思社)をはじめ、〈日本語〉に関するベストセラー本は枚挙に暇がない。しかしなぜ、今〈日本語〉なのか。そこにどうにも違和感を拭えない何かを感じる。
 韓日の文学に精通し、「在日朝鮮人文学」研究をライフワークの一つともされている川村湊氏は、その著書『生まれたらそこがふるさと 在日朝鮮人文学論』(1999・9、平凡社)のなかの一節で、歪められ誤用された貧弱な〈日本語〉を駆使する「在日外国人たちの詩的営為」について、それは「意識的であれ、無意識的であれ、そうした日本語による日本語への闘争でなのであり、それが日本語の歴史にとってどんな意味を持ちえるのか、そのことが問われなければならない」と述べている。
 先に挙げた齋藤孝『声に出して読みたい日本語』には、当然のことながら(?)、そうした意識や意図は微塵も読み取れない。少々穿った見方を許してもらうならば、そこにはリズムがよく暗唱のしやすい〈美しい日本語〉を一方的に言祝ぎ、確固とした〈国語〉を再び国内に定着させようとする無自覚な〈ナショナリズム〉的問題が胚胎しているように思われる。混迷を極めた現代日本において、〈日本語〉ブームが渦巻いている一因をそんなふうに推測してみることもできるのではないだろうか。
 しかし、こうしたあまりにも無自覚な〈ナショナリズム〉の潜在的(無)意識の傾向は、何も一般読者を対象とした出版―流通業界に限ったことではない。アカデミズムを標榜する文学研究会や学会においても同様の状況が出来していると言うことができる。たとえば、日本国内の学会等で近年とみに言及されることの多い保田與重郎や三島由紀夫らについて語ることは、その〈場〉を弁えれば決して容易いことではないはずだ。にもかかわらず、この二人以外にも〈日本文学〉を対象とした〈日本人〉による無責任な発言や叙述は後を絶たない。今、明かせば、そのような現今の「文学場」(P・ブルデュー)に身を置く一人として〈日本語〉で〈日本文学〉について語ることの意義について、語られる〈場〉との相関性から改めて自らの研究の在り方を見つめ直したいというのが、今回の韓日日本文学研究者交流研究会に参加した密やかな個人的目的であった。

(※ 以下、写真はクリックするとおおきめに表示されます。)
受付 発表


 さて1日目、8月16日(金)は13時から約5時間近くにわたって、森岡卓司、土屋忍、波潟剛、王信英の以上四氏からの研究発表が行われた。

 森岡卓司「『成熟と喪失』の〈戦後〉―江藤淳の〈他者〉論の射程―」は、今なお有力な「文学観」として君臨している(かに見受けられる)江藤淳の『成熟と喪失―母の″崩壊″―』を批判的に検討したものであった。氏は江藤には「アジア」という視点が欠け、逆に戦後という状況を巧みに利用し、国家や「アメリカ」に寄り添おうとするロマン主義的な心情が透けて見えることを指摘する。いずれの観点ももっともで全くに首肯できる内容ではあったが、その一方で研究発表自体の〈強度〉、すなわち江藤淳という著名な評家に対する批判そのものの有効性ということが気になった。氏は寧ろ批判の矛先を江藤自身に向けるのではなく、彼を評価し難なく受け入れている〈日本文学〉研究の磁場の方にこそ力点を置くべきだったのではないだろうか。また今回の研究発表の文脈の延長上に「父」の存在と文学に見られるその形象化といった問題をもっと積極的に持ち込むことができれば、さらに韓日文学の交差する地点が見出せたかも知れない(ただしこの点は司会を務めた私自身の反省点でもある)。

 土屋忍「戦後的思考―〈からゆき小説〉と〈ジャパゆき小説〉をめぐって―」は、〈からゆき小説〉としての円地文子『南の肌』と〈ジャパゆき小説〉としての立松和平『雷神鳥(サンダーバード)』とを比較対置しながら、新たな「文学史」の在り方を模索する刺激的かつ意欲的な発表であった。ただ後半は、テクストを離れて戦時期以降の歴史的アポリアに言及するなどあまりに性急に広範な問題を扱いすぎている嫌いがあった。文学における政治性を究明することは、確かに刺激的ではある。だがその一方で、逆に作品そのものの読みを歪めてしまう危険性があることをもやはり常に肝に銘じておきたいと(自らの反省の意味も込めて)感じた次第であった。

 波潟剛「引揚者からシュルレアリストへ―戦後復興期の安部公房―」は、安部公房文学の無国籍性、シュルレアリスムの実践と彼の満州体験、引揚体験との関わりをその初期小説の読解を通じて探る試みであった。非常にわかりやすくコンパクトにまとめられた発表であったが、そのせいか安部がおそらく感じていたであろう葛藤の意識までもが作者にひきずられ捨象されてしまっているように感じられた。

 王信英「日本の1930年代と尹東柱(ユン・ドンジュ)」は、韓国で国民詩人として親しまれている尹東柱の足跡と文学を当時の日本の知識人たちとの関わりから明らかにしようとする発表であった。大変に興味深い内容ではあったが、発表者自身には今回の研究会のテーマ「日本(語)文学史」と尹東柱とがうまく接続しないのではないかという戸惑いがあったようだ。しかしそうした戸惑いを表明されつつの研究発表であっただけに、かえってテーマに関わる議論が深まり、今日の韓日文学研究が置かれている脆弱な足場が露呈されたように思われる。王氏の発表に即して、会場の韓国人研究者からも今回のテーマに対して辛辣な意見が呈示されたことであった。

質疑応答 発表

 このほか研究発表は2日目も引き続き、最後には発表者全員によるシンポジウムもなされたが、しかし二日間にわたって行われた対話は、なかなかうまく噛み合わず、研究会のテーマ自体に関わって堂々巡りをした印象が残った。そして結局、今回の研究会・シンポジウムを経験して至った私の結論は、今のところ日本ならびに韓国の文学に従事する私たちには、互いに文化や歴史等々の偏差を意識しつつ〈ズレながら語ること〉しかないという消極的なそれであった。しかしそれは決して無意味な帰結ではなかったように思われる。なぜならまずは〈語り合うこと〉こそが大切だからだ。〈語り合うこと〉がなければ、互いの〈ズレ〉も生じないし、〈ズレ〉を意識することさえないだろう。

宿にて

 社会学者の大澤真幸は、昨今のグローバル化と同時進行的に顕現している〈ナショナリズム〉の問題を韓国を舞台にして分析し、「和解は、われわれが共通の普遍性へと到達しえないということ、互いに徹底的に特異であるということ、そうした否定性の交換であるほかないだろう」と述べている(金子勝・大澤真幸『共同取材 見たくない思想的現実を見る』2002・4、岩波書店)。
 今回の研究会は、参加者全員にとってはじめての試みで、様々な戸惑いと思惑が交錯したものではあったが、大澤が述べるような新たな〈可能性〉を確実に切り開く端緒となったと思われる。最後に、やはりこのような〈場〉が設定され、多くの協力者・参加者を得られたことに改めて感謝申し上げたい。そして各発表の内容をうまく要約できず、「印象記」の分を超えて些か自らの見解を述べる体に至ったことをお詫び申し上げる。

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 8月17日(土)

報告者:野坂昭雄

 加藤典洋の『敗戦後論』は、戦後日本における「ねじれ」を正面から論じた好著であると言えるが、またこうした発想に対する我々の態度の決定を迫るものでもあった。この著が教えてくれるのは、我々が研究を行う際に時として襲われるある種の戸惑いが、こうした「ねじれ」に端を発する極めて根深くかつ重要な問題なのではないか、ということだ。例えば日本文学を考える際、アジアから見てそれは一体いかなるものであるのか、という「戦後」に関わる問いが提出されなければならないとすると、この反転した視点こそ今回の研究会が要望していたものかも知れない。だが同時に、この視点そのものが「ねじれ」を顕在化させより良い方向へと導くのか、あるいは逆に「ねじれ」によって近代的な戦争の論理に追従することになるのか、私にはわからない。少なくともこの「ねじれ」は、敗戦国としてのあり方をいわば忘却し、汚れない「日本」のイメージがあまりにも流通している現在、改めて考え直さねばならない問題であろう。今回の研究会では、この問いに対する反応として位置づけられるものでは必ずしもなかったが、私なりにこの視点から諸発表について言及したい。

 研究会二日目は、佐野正人氏「帰還者の文学/帰還せざる者の文学」から始まる。氏は『敗戦後論』に反応する形で「ねじれ」について言及するのだが、そこで次のように述べている。

「普通われわれは(日本人のわれわれは)戦後のねじれを日本に特有の構造として思い描いている。加藤典洋の『敗戦後論』などに特徴的なように、戦争の死者とそれによって犠牲となったアジアの死者とは、両立しえない構造をなしているものと考えられている。そしてそれを、敗戦によって戦争の「義」が破れ、それに変わって連合国によって強制された憲法を内面的にも是認せざるをえないというねじれた構造にあると考えている。そしてそのねじれは日本の「戦後」に特有の、敗戦によってもたらされたものと考えているのである。
 しかし、それは本当だろうか。」

 佐野氏はここから、「ねじれ」の構造を日本固有のものではなく、アジア的な「戦後」に広く存在するものだとし、その例として亡命したり、戦後も外地や戦場に留まった者を挙げている。また帰還せざる者、すなわち金石範の小説に描かれた登場人物たちにも「ねじれ」を見出し、そうしたものを考察することで加藤の提出した問題をアジアに開いていこうとするのである。このように、「ねじれ」を広くアジアに存在するものだと考えるならば、加藤のような敗戦国の日本を特権化した論は、別種のナショナリズムを形成するものとして、佐野氏の言う通り否定的に捉えられ得るだろう。
 佐野氏の発表は極めて興味深い内容であり、個人的にはもう少し詳しく話を聞きたかったが、時間の都合上大まかな構図を提示する形のものとなった。討議の中では韓国側の研究者から「同じ行為に対しても複数の見方が存在するはずである」という意見、また「選択は本当に主体的な選択として成立しうるのか」という意見が提出されたように記憶する。これらの質問は、アジア的空間を開かれたものにしようとする佐野氏の論が、この空間を均質化してしまうようなものに見えてしまっているという指摘であると思われる。
 ところで、佐野氏の論は加藤の言う「ねじれ」に対して批判的であり、日本の戦後の主体構築が誤ったものであって新たに構築し直すことが可能かつ必要であるという点に対して微妙なスタンスを採っている。佐野氏は「選択」という言葉を用いることで、戦後日本の主体性について新たな記述を試みようとしているように感じられた。私は加藤の発想が絶対的に間違っているとは思わないが、かといって必ずしも正しいとも思われない(といっても護憲派の立場を採るものでもないし、また戦争責任や賠償の問題を無視するものでもない)。というのは、主体性の再構築が民主主義の名の下に行われた戦後のあり方と、これは同じ発想をしているように思われるからだ。しかし、仮に戦後に主体が様々な「選択」をなし得たと仮定して、例えば「アジア解放という「義」のためにインドネシア独立軍に参加したような者」(佐野氏の発表原稿より)にとって「ねじれ」が解消されているとするならば(筆者は佐野氏がこう述べているように受け取った。誤解があるならお許し願いたい)、大義のために生きることで「ねじれ」に捕らわれないあり方を倫理的にどう評価するかが一つの問題となりうるように思われた。

 二つ目の発表、金京媛氏の「韓国文学史と在日韓国人(朝鮮人)文学」は、在日韓国人(朝鮮人)文学と韓国文学史との関係について再考を促す明快な問題提起であった。その内容は、在日韓国人(朝鮮人)文学は韓国文学史から排除されているが、植民地時代から戦後に至る、日本語で作品を書くこうした人々の中に二重言語状態」を見出し、それを文学史や言語のナショナルな同一性を揺るがすものとして積極的に評価しようとするものであった。「私は何よりも近代につくられた民族語(自然語)の閉鎖性に対抗しようとすることばとして、さらに民族語という境界の暴力性に対抗することばとして、在日韓国人文学の日本語を見なおしたいのです。」(金氏の発表資料より)という金氏の発言は、確かに有効なものであると思われた。しかし、論の 中で「日本文学の側にも新しい観点を望みたいです」と問われた時、自分自身の問題としてこれをどう受け止めればよいのか、困難な問いにぶつかったように感じた。
 言葉自体が発想と不即不離であると考える立場からすれば、金氏の述べていることは、新しい言葉の創出というだけには留まらない深い意義があるのだろう。例えば引用されていたリヴシェ・モニコーヴァの「在日する方々が発見していく新しい言葉というものが、北と南とを結びつける共通の言葉となることを望んでもいいのではないでしょうか。」という発言は、奥の深い内容を孕んでいるように思われる。分断された二つの国が結びつくのは、日本において抑圧されている在日(そこでは北か南かという区別ではなく、朝鮮か日本かが問題となる)を契機とするという意味であるとするならば、ここには在日の人々が持つ倫理的な痛み(佐野氏の言葉より)に対する一つの答が見いだせるのかもしれない。

発表 テーマ討議(1)

 後半の二つの発表は、前半が複数の作家を取り上げて一つの理論的な方向性を提示したものだったのに対して、一人の作家に焦点化し、その歩みを再評価しようとする試みだったと言える。金達寿の文学を歴史的な文脈の中で辿りながら再評価しようとする鄭大成氏の「日本語で〈コリアン・ディアスポラ〉を書くということ」は、こうした意味で極めて興味深い指摘をしていた。例えば「在日朝鮮人(文学)が主体性を快復すればするほど、日本人(文学)からかけ離れ独立してゆくとするなら、全き在日朝鮮人(文学)なるものの完成は(それが全き韓国人(文学)なるものの完成となるとしても、あるいはそうなればそれだけますます)、全き日本人(文学)なるものの完成と全くパラレルなものでしかなくなるのではないか、というパラドックス」 (鄭氏の発表資料より)の存在を指摘し、主体と文学史との間のナショナルなアイデンティティの同一性を乗り越えようとする点に見られる。金達寿はそうした可能性を孕んだ存在だと捉えられているのである。
 結局、鄭氏の提示した問題は「在日文学」とは何かというものだったと言える。それは韓国文学、日本文学のどちらか一方に属するようなものではなく、そのどちらでもあり、「変わるべきは、在日朝鮮人文学ではなく、日本文学、韓国文学という、一国主義国民文学のほうではないか」と鄭氏は論じているが、これは金氏の発表と関連する問題提起であろう。更に、金達寿の文学が植民地支配―被支配によって生みだされた人間崩壊からの人間性の回復を描いていることに触れ、東アジアに視野が拡げられ国境を越えた結びつきが模索される今日、金達寿文学は更に読み直される重要さを持っていること、教科書問題など幾つかの解決すべき問題の解決が東アジア文学の誕生の条件となっていることを指摘している。
 ところで、こうした鄭氏の指摘は、戦後日本の「ねじれ」に対してどのような視点を提供しているのだろうか。これを、在日文学を考えることが「ねじれ」の解消に繋がるという風に解釈すれば、その点で佐野氏の見解に近いと言い得るかもしれない。すなわち、日本の戦後という問題にこだわり、「ねじれ」を日本特有のものだと考える限り、ナショナルな発想に近づいてしまう。寧ろ日本や韓国といったカテゴリーを越えるような発想(東アジアあるいはアジア)が必要なのであり、その時在日文学が大きくクローズアップされなければならないということである。

 四つ目の、梶山季之に関する川村湊氏の発表も、これまで注目されてこなかった梶山季之の朝鮮小説に新たな光を当てるもので、戦後の問題に対して何かしら新しい視点を含んでいるように思われた。近刊予定の『梶山季之朝鮮小説集』(インパクト出版会)の解説を執筆した氏は、梶山のテーマが「移民」「原爆」そして「朝鮮」であると述べ、これまでスパイ小説やポルノ小説などを執筆する流行作家として知られていた梶山の新たな側面を浮かび上がらせている。発表の内容は、梶山の紹介から始まり、作品の異同の問題、「族譜」における創氏改名のエピソードの背景、朝鮮小説の恋愛におけるオリエンタリズム的な問題など多岐に亘るものであった。そして、それぞれの点で私にとって大いに参考になったし、内容が具体的であったこともあって大変興味深かった。この発表には、これまでの日本文学史が注目しなかった側面に光を当てるという面で研究会のテーマと関連するのはもちろんだが、もう一つ、例えば日本の研究者が韓国文学や在日の文学に言及するとき、歴史的な背景や作家に関する情報をきちんと押さえておくことが如何に大切かということを教えられた気がする。

テーマ討議(2) テーマ討議(3)

 私は二日目の報告記事の執筆を担当することになったが、筆者の力量不足のためであろう、この記事を非常に書き悩んだ。それぞれの発表は極めて真摯なものであり、それらは提出している問題を聞き手が自分自身のものとして受け止めるよう要求しているように感じられたからである。韓日の研究者が対話をすることには、孫歌が『アジアを語ることのジレンマ』で述べているような、本質的な困難さが伴う。例えば、中途半端な理論的武装は何かしらそこでは色褪せたものに見えてしまい、理論的なアプローチが倫理的なものを前にして行き詰まる地点に直面させられ、自らの研究方法に対して根本的な再考を迫られるように感じる。もちろん、こうしたことは恐らくこれまでにも繰り返し指摘されてきたはずだし、ある程度は理解していたつもりだったが、やはり知識だけではどうすることもできない倫理的な問題について考え込んでしまった。当然のことながら私にとってこの体験は非常に意味深いものであった(本来ならばこの体験を報告すべきなのかもしれないが、私自身どう言葉にすればよいか戸惑っている)。

 ところで冒頭の話に戻れば、戦後の「ねじれ」を開くということは何を意味しているのか。何かに囚われている状態からその解放へと向かうベクトルは、憑き物のように離れない「ねじれ」というものを否定的に捉えているように思われるのだが、もしかしたらこの「ねじれ」こそ韓日関係の最も根底に位置する在日韓国人の問題を支えている一つの幻想なのかもしれない。しかもそこにこそ一つの倫理的な次元が存在するとしたらどうであろうか。在日韓国人文学には主体的な意志決定が刻印されている。「帰還者の文学」と「帰還せざる者の文学」とを分け隔てる後者の「倫理的な痛み」(佐野氏の発表より)には、「大義」を犠牲にすることによってなされた主体的な行為が見出されるのではないだろうか。言い換えるならば、我々が在日韓国人の文 学の中に「ねじれ」を読もうとする時、多くの日本人がなし得なかった行為を無意識のうちにそこに見ているのであり、「ねじれ」の中にこそ倫理が胚胎しているのではないか。そして戦後日本の「ねじれ」とは、それに比べたら未だ低い次元に位置づけられるべきものなのではないだろうか。もちろん、何を為すべきかについて私に明確な解答があるわけではない。ただ、今回初めて韓国へ渡り、そこで多くの人々の暖かい心遣いに触れながら、こうした思いを深くした。

(報告記事としては甚だ不充分であり、かつ脈絡を欠いております。何卒お許し下さい。筆者)

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  <印象記>

そうである(あった)こと・そうではない(なかった)こと──選択の表象をめぐって

高橋秀太郎 

 太田行きのバスの中で、私たちは使うことがありそうな韓国語を覚えるのに必死だったのだが、その作業に熱中しながら、その韓国語が相手に伝わったとしても相手の話すことは全く分からないよねたぶん、という話をしていた。自分が外国に来ているということを最もはっきりと感じたのはその時だったように思うが、そこで覚えようとしていた意味しか伝えない言葉―韓国語とは一体何だったのであろうか。韓国滞在中、日本語に取り巻かれており、またそのようにしか振る舞い得なかった自身にとって、こちらが発するばかりの韓国語とは〈他者〉の言語だったのだろうか。さて以下いくつかの発表を取り上げながら、たどたどしいながら印象記を書いてみたい。

 佐野氏は、公式、非公式に存在してきた日本に関わる「難民」や「亡命者」の有り様を具体的な数字を挙げつつ述べながら「戦後日本の空間(文学)が、アジア的リアリティに開かれていたことを再認識すること」が重要であるとした上で、「ねじれ」をキーワードに「アジア的「戦後」と日本の「戦後」とが互いに合わせ鏡のようになっている」ことを金石範の小説の読解しながら示してみせた。そして最後に「コロ ニーからの帰還者と帰還できなかった「在日」とはどのように交差し、どのような差異をはらんでいるのだろうか」「彼等を共通の「戦後」という空間において見ることは可能だろうか」という「問い」とともに、「彼ら」の(「ねじれ」の)「物語」を解放していくことこそ「戦後日本の経験をポストコロニアルな場に開かれたものにする道でもあるはずなのである」とする。この「ねじれ」とは佐野氏によれば「朝鮮人として祖国建設に尽力すべきであるという倫理と、朝鮮に帰還せず日本に留まり続けることとの間の」それであり、「「在日」を選択しながら「大義」に引き裂かれ続ける」有り様でもある。
 こうした「ねじれ」の根源にある「選択」という問題は、金京援氏の発表においては、植民地時代の強制という形での、あるいは戦後の在日韓国人文学においての、日本語の「選択」のある種のナイーブさとして論じられたことでもある。
 〈作家主体〉が、「〜べきだ・だった」ということと、自身が「今そうでないこと・そうでなかったこと」をめぐって織りなす逡巡・葛藤という問題について、論じる方向性や、論者のスタンスは異なるものの、たとえば森岡卓司氏は、江藤淳の『成熟と喪失』における「〈他者〉論」をたどりながら、そうした「〜べきだ」という姿勢(の選択)にある種の「ロマン主義」が入り込む可能性を示唆している。  波潟剛氏は、「満州における生活」とそこからの「引き揚げ」、「敗戦体験や植民地体験」が、安部公房にとって「故郷」の新たな意味づけを促すものであり、それは「新しい現実認識」の表現としてのシュルレアリスム・アヴァンギャルド芸術の選択に結びついているとした上で、公房の〈変形=シュルレアリスム〉が、「主体自らの〈変形〉」までも描き込むことに注目している。小説『壁―S・カルマ氏の犯罪』におい て「「革命」を鼓舞する分身と、それに呼応できない「カルマ氏」」といった「自己の領域でも疎外される状況」において始めて〈変形〉が生じることが、公房自身の「「現実」に関する「認識」が周囲のそれとはかみ合わないことが原因だったと考えられる」とする氏の発表は、作家の満州体験の質や、〈戦後〉における日本の「現実」、すなわち「〈内地〉という空間」や「〈階級〉という理念」に対する「違和感」の表明といった問題と、公房の小説における表象の論理をつないでみていく試みであったと思われる。

 ある表象主体の選択を巡る問題とは、レベルはむろん異なるのだが、この学会の「複数の日本(語)文学史―〈戦後〉をめぐって」というテーマの「選択」に関してもっとも活発に意見が出されたことをみても一つの大きなトピックだったように思われる。端的にそれは「日本(語)」の選択であったはずなのだが、なぜそれが選ばれたのかということと、選ばれたことに対する異和の表明が繰り返し為されたことは、 そうした問いが日本語を用いてのものだったことを考えるとき、簡単には答えられないものであるように感じられた。と同時に、選択の問題を考える際に、先に見た「ねじれ」や〈作家主体〉の逡巡・葛藤をテクストの表象の論理として取り出してみることと、それを取り出すことがいかなる意味を持ち得るのかについて考えあわせることの重要性もまた明らかであるように思われた。先にみた「ねじれ」や葛藤は、ある選択が為された際に、そしてそれが表象された際に必ず見出し得るものであろうが、そこで重要なこととは、その選択が、いかなる地点で、どのような形で、なぜ為されたのか、について閉じられない形で論じ考えていくことだと思われる。そのためには「〜すべきだ(った)」という地点に留まらない思考回路が求められよう。
 また、今学会ではそれほど触れられてはいなかったのだが、ある選択にまつわる「ねじれ」が、時間差や、空間差といった様々な位相において表象されていくその論理を、〈文学〉のそれとしていかに論じていくことが出来るかについて、自身の興味としてもっと聞いてみたかったと思う。

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エキゾチック韓国紀行

野口哲也 

 自分はこの印象記に書くにふさわしい何かを持ち帰っただろうか? 韓国を訪れること については、とても楽しみにしていた。韓国では大変にホスト精神が大事にされると聞い ていたし、実際日本でもそのように感じていた。身近なところで韓国人留学生たちも、 我々が韓国に行くことを本当に喜んでくれた。けれども自分は韓国についてほとんど何も 知らずに今回の研究会に参加した。初めての海外だというのに、ぎりぎりのところでチ ケットとパスポートを取得した。前日、修学旅行先が韓国になっている非常勤先の高校で 観光ガイドを手に入れ、その夜、留学生に電話をして東大門市場と南大門市場の違いを確 かめた。お気楽なツーリスト以外の何ものでもない。これではいけないと思い、持ってい く本としてセガレンのエキゾティシズム論(翻訳)を選んだ。
 ヴィクトル・セガレンは、20世紀初め、ポリネシアや中国を旅しながら異文化とその 言葉を題材に多彩な文学活動を展開したフランス人作家だ。彼が描き、そして実践した経 験は、ロティなどの帝国主義/植民地主義的な、あるいは異国趣味としてのそれとは正反 対なものと評価されている。つまり、エキゾティシズムには政治的に良いエキゾティシズ ムと悪いエキゾティシズムがあるが、セガレンのそれは前者であり、異質なものとの接触 から多様なるものを生起させうる、開かれたものだというわけだ。
 さて、そんな本をスーツケースに詰め込んでしまった飛行機の中で、無理からぬことで もあるが自分は、観光用の地図と最低限の会話集しか開かなかった。やはりお気楽なツー リスト以外の何ものでもない。こういった羞恥心なり罪悪感は、多かれ少なかれ一緒に 行った仲間がその笑顔の裏でみな共有していたのではないか。自分は田舎者だが、いま東 京の学会に参加してもこんな風に「研究」と「観光」に引き裂かれることはない。

 さて当日は、どの発表でもそんな微々たる倫理?がスケールを変えて、自分よりははる かに深く批判的に掘り下げられていた。特に顕著だったのは、やはり韓国語/日本語とい う〈二重言語状態〉をめぐる会の後半の議論だったと思う。王信英氏、金京媛氏がそれぞ れ、韓国人が日本語で書かない/書くことの選択を問題にしていた。同時に会場もまじえ て「戦後」/「解放以後」という二重性についても触れられていたが、文学史の領域を脱 中心化をする指摘であり、会のテーマ自体に迫って見事に「複数」化を試みたスリリング な議論であった。鄭大成氏も「在日朝鮮人文学は、日本文学でもあり韓国文学でもあり、 またその両方でもありうる」と言っていたように、一方的な告発・断罪とは本質的に異な る「一国主義国民文学」の転倒を目の当たりにする気がした。実際に二カ国語を駆使して なされた質疑の場面など、眩暈のするようだったことだ。
 この問題提起と、主に1日目に日本人研究者が扱った〈主体〉と〈他者〉をめぐる議論 とは、その場では十分に噛み合っていなかったようにも見えた。が、仮に会の日程が1日 目と2日目と逆であったなら、と想像してみる。〈植民地における二重言語状態〉とはア ジアのみならず、例えばセガレンが生きた時代の「フランス文学」、あるいはエキゾティ シズムの問題でもあるように、「内なる他者」であるとか、故郷からの離脱、故郷への帰 還といったアイデンティティの(脱)構築に関わることでもある。とすれば、一見したと ころの発表テーマの違いは、実は眩惑された眼が会場のコミュニケーションに追いついて いなかったことによるのかも知れない。
 そういう次第で以下は散発的な印象に留まるが、シンポジウムで川村湊氏が、日本人と 韓国人のカップルの表象や『蝶々夫人』『お菊さん』の例などを挙げながら宗主国と植民 地のジェンダー的関係について言及されていたのが、個人的には興味深かった。先の「戦 後」か「解放以後」かという問いを別の立場で捉えたなら、森岡卓司氏が論じた江藤淳が 「アメリカ」「アジア」あるいは「父」「母」とどう向き合っているかという問題とも結 びつくはずのものだとも思え、川村氏の発言はそうした議論の道筋をも示唆していたので はないかと感じていた。また土屋忍氏は近代史を捉え返す試みとして〈からゆき小 説〉〈ジャパゆき小説〉という二つの異なる「ゆき(exo?)」を取り上げていたが、さら によく知られる西欧の対日(対アジア)エキゾティシズムと比較しても、上に記したよう なアイデンティティのねじれは見えやすいのではないか? 土屋氏が「書き手になりえな かった当事者の表象」という観点で対象を扱っていたように、それらは二重言語の問題と はストレートに直結するものではないかもしれないが、時間が許せばこうした論点での複 合的な討論も聞いてみたかった。
 以上、未だ消化し切れていない部分が多々あるものの、まだまだ聞いてみたいことがあ るほどボリュームのある会だったという印象である。われわれ日本人が十分に自覚せず 「日本(語)」を選択していることを鋭く抉った韓国人研究者の指摘は、自分の専門とか 研究対象は今回のテーマである〈戦後〉からは遠いところにあるなどと思わないでもな かった私の姿勢をも、厳しく戒めるものでもあった。

 最終日、ソウルで半日ほど観光を楽しんで帰ってきた。いろいろな意味で、しばらく観 光旅行は国内でしかできない気がするが、今回は何の準備も自覚もなく訪れてしまった者 でも、持っていった本を取り出す暇もないほど充実した韓国行だった。親切にしてくだ さった方々に十分に礼を尽くせなかったので、せめてこの場を借りてお礼申し上げたいと 思います。

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文学・思想懇話会