第6回 文学・思想懇話会(2001.6/2)の報告
京都学生研修会館の一室をお借りして、 第6回文学・思想懇話会研究発表会が開催されました
報告者:土 屋 忍
6月2日(土)
「1997年3月、東北大文学部の一室を借りて行われた『昭和十年前後の“夢と知性”』と題する小さな研究会」(文学・思想懇話会編『近代の夢と知性』翰林書房、2000.10の「あとがき」より)も世紀越えとともに入京するに至り、なんとなく「ナショナル」な会になった。もはやこの会の愛称「うたたね会」の名を口にする者はない。来年の開催地として、早くもソウルが名乗りをあげている。「ローカル」な場所からはじまったこの会が「グローバル」な装いで地球を漂う日も近いだろう。
6月2日、朝10時半、於京都学生研修会館。5名の保田研究者が一堂に会し、第6回「文学・思想懇話会」は開始された。今回は、仙台から菅原潤氏、名古屋から柳瀬善治氏、イリノイから(甲南大学に滞在中の)ケヴィン・マイケル・ドーク氏をお迎えし、特集「保田與重郎」にふさわしい3名の発表を拝聴することができた。さらに会のスタッフより、畑中健二氏及び野坂昭雄氏による研究報告がおこなわれ、盛りだくさんの内容となった。
(※ 以下、写真はクリックするとおおきめに表示されます。)
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京都学生研修会館 | 会場 |
トップバッター畑中氏の報告は、シラーと富士谷御杖に対する保田の姿勢を検証し、30歳(数え=1939年)頃までの保田にみられた「安心の無さ」ともいうべき性格を浮かび上がらせて、後にはそれが「安心」の立場へ接近しているのではないかと結論づける。保田與重郎の思想的転回の内実に迫るものであった。とりわけ初期の保田の思想を見据え、彼の思想形成に関与した複数の人物を焦点化し、言説間の比較検討を通じて保田を特徴づけるキーワードを見出していくその手法は、つづく菅原氏の発表にもみられた。
菅原氏の主眼は、「三木清・・・はいいたくない人の名」という保田自身の言葉を出発点にして、これまで結びつけて論じられることの少なかった保田與重郎と三木清の関係を、中島栄次郎を媒介にすることによって新たに問題化することであった。すなわち、「不安」にこそリアリティをみた三木がいて、その地点からさらに「感動」という作用を重視して作家のリアリズムを考えた中島がいる。「ためらい」から内への方向をとる文学を指示した保田は、この「不安」(三木)から「感動」(中島)へという道筋を引き継ぎ『後鳥羽院』(1939)に辿り着いたと論じるのである。書くことをためらうのではなく「ためらい」を書くこと、美しと思い呻く(嘆く)のではなく「呻き」を美しと強調すること、こうした保田の身振り(表情)の解明へ向かう発表でもあった。
なお、畑中氏の報告「保田與重郎と富士谷御杖と「言霊」」は、『文芸研究』第150号(近刊)に掲載され、また菅原氏の発表内容は単著(『シェリング哲学の逆説――神話と自由の間で――』北樹出版から2001年10月刊行予定)に収録されるということなので、詳しくはそちらを参照されたい。
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研究会の様子(1) | 研究会の様子(2) |
午後、最初の発表者は柳瀬氏である。氏はすでに「異文化間の『架橋』と『日本』の浮上――保田與重郎における西欧の〈アウフヘーベン〉――」(『日本近代文学』第56集 1997年5月)において、保田の依拠した「西洋」にはヨーロッパ自身の自己批判や近代の超克が内包されていたことを指摘し、保田的〈日本〉の生成(「日本回帰」ではない!)を考察している。今回の発表は、保田の受容した「ドイツ」を、いわゆる美学的な側面に限定せず、近代法学を含む総体として捉えなおすことにより、彼の言説の有していた倫理性や規範性に光を当てる試みであった。保田は、ゲーテやカントを読み込むことにより、「法の詩学」を個人的な読書行為のレベルでは実現していたと言えるが、家庭や結婚への言及、さらに戦争や植民地の文脈に触れるに至り、彼の言説は他者を裁断する当時の日本の法理学(及びナチス法学)と同調的になっていったとまとめる柳瀬氏もまた、畑中氏や菅原氏同様に保田の転回の問題が念頭にあり、加えて、転回をめぐってなされる倫理的評価の基準を探ろうとしているように思われた。
つづくドーク氏の発表は、『日本浪曼派とナショナリズム』(小林宣子訳 1999.4 柏書房、原著は1994)をはじめとする著作で、氏自身が照射してきた戦時下日本における保田的ナショナリズムの独自性を再提示し、それを展開する形でおこなわれた。すなわち、昭和10年前後のテキストにみられる保田の文芸観を掘り起こし、「文芸の伝統」を「民族」とみなし、そのような「文芸」によって「日本」を創ることを発想したことを確認した上で、「文芸的民族主義者」としての保田與重郎が多民族国家としての明治日本や植民地帝国日本を退け、「単一民族の日本」をイメージするまでの軌跡を明らかにしたのである。保田的ナショナリズムを丹念にみていく作業は、「国民」と「民族」の差異を意識しない「国民国家」論が見落としがちな位相を捉えるのに欠かせないとする氏の主張は、他の発表者の認識とも重なり合う部分が多いように見受けられた。
本日最後の報告者は野坂氏である。これまで「保田與重郎試論――初期評論における『欠如』と『イロニイ』」(『昭和文学研究』第35集 1997.7)、「保田與重郎とカント――アプリオリな思考と全体性への射程――」(前掲『近代の夢と知性 文学・思想の昭和一〇年前後(1925〜1945)』所収)を発表してきた氏の今回の報告は、「保田與重郎と女性」と題するものであった。明言はなかったが、保田の表現にみられるある種の捉えがたさを、研究者共同体にはまだ共有されていない「女性的なるもの」を新たな切り口にして解釈していこうとする狙いが感じられた。また、生硬な話に時折紛れ込む冗談(イロニー?)が笑いを誘う和やかな報告でもあった。まず、ラカン理論を援用する井口時男「保田與重郎−イロニーと『女』−批評の言説/言説の批評(三)」(『群像』平成11年7月)を手がかりとし、ジジェク、ナシオらのラカン論の検討を通じて、領域としてまとめることのできないメタファーとしての「女性(的)原理」の言表がなされた。そこから具体的に、「ロッテの弁明」や「ヱルテルは何故死んだか」、「童女征欧の賦」がとりあげられたのだが、私(土屋)自身が「女性的なるもの」を理解できていないためか、詳細な作品分析に至らず残念という聴後感をもった。私の拙い理解を深めるためにも、(これは他の方にもお願いするのだが)今後の一刻も早い活字化を通じて、もう一度教えていただきたいと思う。
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研究会の様子(3) |
以上のように、5者5様の「保田與重郎」論であった。そしていよいよ総合討論の時間になるのだが、この種の会の常として、すでに会場の時間が押しており、議論が活発化する前に終わりがきてしまったのは今から考えるといささかの心残りであった。それでも、いくつかの有意義な質問が交わされた。とりわけ田口律男氏の発言は印象的であった。田口氏は、5名の発表(報告)内容をみずからまとめられた上で、「なぜ今保田與重郎なのか、という意味付けはそれぞれの発表者においてどのように自覚されているのか」という主旨の質問をされた。研究発表や論文執筆を通じて結果として保田的言説が再生産されるなら、「保田與重郎」が特権化されてしまうのではないかという危機意識に基づくものであり、いわばこの会(文学・思想懇話会)全体に向けて発せられた警鐘としても受け取れる貴重な言葉であった。批評の現場や「日本近代文学会」においてしばしばなされる問題設定ではあるが、畑中氏が専門とする日本思想史学、菅原氏が専門とする西洋哲学、野坂氏の発表舞台のひとつである比較文学会、土屋が所属だけしている東南アジア史学会やアジア文学会といった諸分野では、おそらく共有された問題設定とは言い難く、あるいは面喰った発表者、参加者もいたかもしれない。だが、今後この会をどのような形であれ存続させようとするのであれば、避けることのできない問いかけだったのではないだろうか(以下、完全に個人的見解になることを許していただきたい)。
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懇親会のあとに | 懇親会のあとに |
今、「派閥解消」を訴える小泉首相のレトリックが一定の訴求力をもっている。にもかかわらず、真に無派閥の状態など妄想にすぎない。戦略ではなく本気で「派閥解消」を言う者は極楽トンボである。(学界を政界と混同するなという意見もひとまず切り捨てておきたい)。ひとつの研究会に参画している以上、瞬間的であれ「派閥」であることについては意識せざるを得ないのであり、個々人の机上で生まれた研究成果が本人の意図を超えて見知らぬ他人に向かって働きかけている状況を視野に入れることなしに「会」など成立しないのである。それは会の装いがローカルであれ、ナショナルであれ、グローバルであれ、同じことである。しかし、だからと言って個人もしくは会全体が明確な態度表明をすべきだということにはならない(その意味で「混迷期にははっきりとした姿勢を選択しない方がいい」というドーク氏の発言には共感した)。これまで、代表者山崎義光氏の軽やかなキャラクターに頼りつつ乗り越えてきたが、今後とも「なんでもあり」の初心を忘れないためにも、はたまた支配的方法論(中心)の不在という会の特長をそのまま生かすためにも、われわれ自身の見解の相違(実は相当に違う!)や限界(まだ皆発展途上!)をわきまえた上で、誰が来ても吸収できるスポンジを用意しておきたいと自戒するだけである。そうすることにより、「メンバーも会員/非会員などと区分けせずに、その都度の内容で出たり入ったりするような形態を維持しつつ、不定期にいろんな場所で研究会を開催する」(加藤氏のメールより無断引用)ことの有益性も増すに違いない。
今回は、田口律男氏、江藤茂博氏、川久保剛氏、坂元昌樹氏、中川成美氏、酒井隆之氏といった方たちが、初めて会に参加してくださり、貴重な質問やアドバイスを頂戴した。にもかかわらず、私を含めた会場の発言に対する反応が大人し過ぎたように感じた。旅の疲れがあったのだろうか。それとも夜の会に頭が跳んでいたのだろうか。・・・多彩(多才)な発表を一度に拝聴できただけでも十分に有意義な会ではあったが、欲を言えば、もっとざっくばらんに本音をぶつけあう場面があってもよかった。たとえば、会場には作品を丁寧に読むことを大事にしてきた者も少なくなかったと思われるのだが、「もはや作品を読む気になれない」という柳瀬氏の発言(田口氏の問いかけに対する答えのほんの一部)との意見交換がなされなかった・・・。
せっかく集まるのである。いくら欲張ってもいいはずである。今から次回を楽しみにしている。
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散会(京阪三条入り口付近) |
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6月3日(日) 記録:山崎義光
京都太秦の保田與重郎邸に行って来ました。 映画村にほど近いバス停で降り、住宅地の中のゆるやかな坂をのぼったところに、保田與重郎邸はありました。
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保田與重郎邸表札 |
表玄関 |
思い切って、外の門を入り、外来を告げる銅鑼をたたいてみましたが、どなたもお出になられませんでした。
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玄関 |
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門内から(1) |
門内から(2) |
門内の様子(門内から1)は、そう、桶谷秀昭『保田與重郎』(講談社学術文庫)の扉に挿入された保田近影のその場所です。
そのあと、何人かとはその場で別れ、残った人数で嵐山まで足をのばしました。
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嵐山渡月橋 |
いい天気でした |
その日は、軽く汗ばむ程度の心地よさで、実にいい天気でした。うわさに違わず、修学旅行の子供たちがたくさん徘徊しておりました。 近辺を散策し、駅へ。
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JR嵯峨嵐山駅 |
JR嵯峨野線で、うとうとっとしているうちに、京都駅へ到着。そこで解散となりました。
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JR京都駅 |
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予告として掲示した記事。
文学・思想懇話会 第6回 研究発表会
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日時 : 2001年6月2日(土) 10:30より |
場所 : 京都学生研修会館
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特集 : 保田與重郎
〔研 究 発 表〕
- 保田與重郎と三木清
菅原 潤(東北文化学園大学)
保田与重郎の思想を位置づけるために、従来では亀井勝一郎に代表される転
向体験や横光利一の純粋小説論と対比する試みがなされてきたが、この発表で
は三木清との対比を考えてみたい。赤松常宏『三木清』(ミネルヴァ書房)に
よれば、三木は30年代前半にシェストフ的不安と行動的人間を表裏一体とす
る文芸評論を展開しており、これに対して保田が微妙な反応をしているからで
ある。まずは「文学時評(コギト昭和7年7月号)」と「文学時評(コギト昭
和8年8月号)」で保田が中島栄次郎と松下武雄の評論をどう位置づけている
かを見、つぎに三木の「行動的人間」と保田の「時評的文学雑記」を突き合わ
せて、保田がいかにして「後鳥羽院の系譜」にたどり着いたかを探ってみた
い。
- 保田與重郎の「法の詩学」
柳瀬善治(名古屋大学大学院研究生)
保田與重郎の言説に関しては、これまでその美学性や方法の想像的性格について考
察が深められてきたが、その規範性や倫理性に関してはあまり触れられることがな
かったと思われる。
美はそれ自体では強制力を持ちえず、強制力の発生のためには法や倫理との媒介が
必要となるのだが、この観点からの浪曼派研究は進んでいるとは言いがたい。また、
保田が影響されたドイツ思想の文脈でも、ヘーゲルやグリム、ハイネに代表されるよ
うに法学とクロスした思想家が多いのは周知であり、美学と規範・倫理との関係性は
考察に値すると考えられる。
そのため本発表では、保田與重郎の『法の詩学』と題し、保田の言説の規範性や倫
理性の問題を同時代の言説との差異も視野に入れながら考える。参照する言説として
は『ウェルテルはなぜ死んだか』『近代の終焉』『民族的優越感』『風景と歴史』な
どを念頭においている。
- 保田與重郎の文芸観
ケヴィン・マイケル・ドーク(University of Illinois at Urbana-Champaign)
「文芸」というものが保田與重郎の発想の中で重要な役割を果たしていることは周知の通りである。しかし、その「文芸」というものが実際何を指すのか、今の段階では曖昧であり、殆ど追求されていないといってもよい。確かに一般の文芸の意味(文学や芸術)だけに限らず、そこにはより文化に近い意味も包含されていると思われる。そして、保田の個性的な表現は、彼の文章の意味を理解しようとすればするほど、直接的かつ実証的な解釈方法の限界を超えて、間接的な解読、いわば歴史的な解釈をも要求するものである。
本発表では、マルクス主義文芸論争から出てきた「政治的価値と芸術的価値」の問題からヒントを得て(桶谷秀昭の『保田与重郎』参照)、そこに保田の主張する文芸の意味の出発点を見出してみたい。更に、以上のテーマを歴史的な背景としつつ、「清らかな詩人」(昭和8年)から「民族と文芸」(16年)や「日本文芸の伝統を愛しむ」(22年)までのテキストを参照しながら、出来るかぎり保田の文芸観を掘り起こしてみたい。
〔 討 議 〕
上記発表に、数人の報告を加え、発表への質疑も含めて参集者による討議を予定。
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